(上の画像は©gallica.bnf.fr / BnFです。)
パリに住むフランス政府公認ガイドの「イーノー」です。
1867年2回目のパリ万国博覧会は日本が初めて正式に参加した万博です。
日本はどうして参加することになったのか、とか、博覧会での日本の評判はどうだったのか、とか詳しいことが気になり始めました。
で、イーノー調べに調べました。
そこで分かったのが、
- 幕末、日本とフランスの関係はかなり深かった。
- この万博参加が日本近代化の「一つのかなめ」になった。
ということでした。
この記事では以下のテーマを掘り下げていきます。
- 第2回パリ万国博覧会の概要
- どうしてフランスは日本幕府に参加を求めてきたのか?
- 幕府は何を目的として参加を決意したのか?
- そして結果はいかに?
表面上の華やかさの裏には常に政治の裏目的があります。
結論を先に言うと、
幕府が当初思い描いた目的は果たせませんでした。
でも、日本のパリ万国博覧会参加がヨーロッパ文化に莫大な影響を与えます。
そして、日本から欧州に渡った使節団員の多くは、明治維新後、この時の欧州旅行の体験を生かして、日本を近代化するために大いに活躍します。
それでは詳しく見ていきましょう。
ちょっと長いですが、最後までお楽しみください。
第2回パリ万国博覧会の展示会場情報
第2回目のパリ万国博覧会は、1867年(慶応3年)日本開国後13年経ったときに開催されています。
フランスは皇帝ナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)の時代。
ナポレオン3世
出典:Franz Xaver Winterhalter, Public domain, via Wikimedia Commons
「世界のフランス、産業先進国フランス」をアピールするために開いた第2回目のパリ万国博覧会でした。
開催期間
1867年4月1日から10月31日
(開催期間はなぜか資料によってまちまちでした。)
フランス国立図書館ブログ
(https://gallica.bnf.fr/blog/17082017/lexposition-universelle-de-1867-la-bibliotheque-imperiale?mode=desktop)
に出ていた日にちを採用しています。
開催場所 シャン・ド・マルス
場所はシャン・ド・マルスというところで開催されました。
現在エッフェル塔が立っている場所です。
下の地図、(赤字でChamps de Marsって書いてあるところ、緑の部分一帯)
1867年にはまだエッフェル塔はありませんでした。
エッフェル塔がたてられたのは1889年第4回目のパリ万博のときです。
当時は陸軍士官学校(Ecole militaire)の練兵場として使われていました。
要は、野原だったということです。
そこに、巨大な万博会場を作ります。(会期が終わったら解体されました。だって軍人さん、練兵場必要だったから。)
こんな会場 ↓
真ん中の楕円形の形がオムニバス・パラスと呼ばれた会場建物です。
周りは長方形の公園でした。そこに各国のパヴィリオンが作られました。
手前に描かれているのはセーヌ川。
会場の大きさ
オムニバス・パラスと呼ばれた会場の面積は156 000 m²
長径495 メートル 短径380 メートル
こういう巨大な面積を突きつけられてもイーノーは実感わかないです。
パリ近郊にあるサッカー競技場スタッド・ド・フランスの大きさが長径119 メートル短径75 メートルということを考えてみてください。
サッカー競技場の3倍くらい?!
なんとなく、むちゃくちゃ広かったということが分かります。
展示会場 見取り図
出典: gallica.bnf.fr / BnF
楕円形の中が会場
会場の設計は、1860年代に造られていったパリの街(つまり現在のパリ)とまったく一緒なのですよ。
中心となる広場から放射線状に道が伸びていく、っていう形。
例えば、凱旋門の上から眺めると、この放射線状に道が伸びていく形がきれいに見えます。
会場内、真ん中に温室庭園がありました。
それを中心として放射線状の通路が伸びています。
これらの通路に、各国が割り当てられ(あるいは数か国まとまっているところもある)、その国々の展示ブースが並んでいました。
さらに、放射線状の通路を結ぶ形で楕円形の形をした通路を何本も作りました。
ここは、通路ごとに展示物のカテゴリー分けがされました。
芸術部門が一番内側の通路、一番外の広い通路が食品部門になっていました。
当然外周の方が面積広いから、芸術部門より食品部門の方がずっと大きかったことになります。
昔っからフランス人グルメだったのでしょうね~
それに、産業国アピールって言っても、フランスは農業大国ですからね。
会場建物のまわりは庭園になっていて、各国のパヴィリオンが建てられていました。
レストランがいっぱい立ち並び、各国料理が食べられたそうです。
それに庭園部分には託児所まであったんだよ~
水圧エレベーター
機械部門に21Mまで上がる水圧エレベーターが2機設置されていました。
これに乗って上に上がると、建物の7階くらいの高さから博覧会上を見下ろすことができたのです。
エレベーターというものを観たことがない人だらけの時代です。
飛行機も存在していません。
上から下を見下ろす、なんていうことがない時代に、エレベーターにのって下を見下ろしたときの人々の驚きを想像してみてください。
会期中に500,000人くらいの人がエレベーター乗ったらしいですよ。
国ごとの配分
フランスが展示会場の半分を占めていました。
イギリスが6分の1
プロシア・ベルギー・オーストリアがそれぞれ16分の1
ロシア・アメリカ・イタリア・オランダ・スイスなどがそれぞれ32分の1
日本・シャム(タイ)・清国(中国)はもっともっと狭い場所
日本・シャム・清国はアジアコーナーとして、ひとつの通路にまとめられていました。
1867年パリ万国博覧会、そもそもどうして開いたの?
フランスは長い歴史の間、ずーっとイギリスに対して常にライバル意識とちょっとした憧れを持っています。
ナポレオン3世は、フランスで政権を握る前はイギリスに亡命していました。
フランスより1歩早くにに近代化を成し遂げたイギリスが大好き。
フランスで政権を握ってからは、イギリスに追いつき追い越すべく、産業の発展にこだわります。
1862年にはロンドンで万国博覧会が開かれました。
そのときに農業・商業・公共事業大臣(って全部管轄してる~)ルーエルという人が次のような報告書を挙げてきます。
産業面でも植民地政策でもイギリスに負けていたのに、フランスが誇る「芸術」まで負けたらもう終わりです。
そこで、2回目のパリ万国博覧会を開催して、
- 生産者たちの士気を高めましょう。
- 産業芸術をもっと発展させましょう。
- 万博で世界の展示物をみることでお互い切磋琢磨しあい、商売活動の範囲も広めていきましょう。
となったわけです。
とにかくフランス、焦った!のです。
イギリスに負けたくない!!!
フランスは世界の中心アピール
とにかく世界におけるフランスの威信をアピールしないといけないので、世界中の国の参加にこだわりました。
結果
41か国が参加(42か国と書いてある資料もあり)
6万近くの出品者
11,000,000人以上の訪問者
過去最大の博覧会になりました。
ちなみに、1862年ロンドン万博は
36か国の参加
28 000 の出品者
パリ万博の勝ち~ってことで、ナポレオン3世も満足満足。
フランス 徳川幕府に万国博覧会参加を要請
世界一のフランスを知ってもらうため、フランスは世界各国にパリ万国博覧会参加を促しています。
その例にもれず、日本も招待されました。
ちょっとここで、当時の日本とフランスの関係をちらっとご紹介しておきます。
幕府とフランスとの関係
フランスは、イギリスやオランダより日本との貿易政策でかなり遅れをとっていました。
これではいかんということで、レオン・ロッシュという人が駐日フランス公使として日本にやってきます。
彼は上手く幕府の信頼を得るようにふるまいました。
その戦略大成功で、ロッシュは江戸幕府から製鉄所と造船所の建設斡旋を頼まれます。
そこでできたのが、横須賀製鉄所
その他、フランス語の学校 横浜仏語伝習所も設立。
さらにフランスのエリート軍人たちがきて、日本の軍隊教官教育までしています。
徳川幕府最後の将軍 慶喜(よしのぶ)は大のフランスびいき。
フランスから贈られた軍服と馬をずっと大切に所有していたという話です。
彼はフランス語の勉強までしていました。
下の写真はフランスの軍服を着た将軍 慶喜。手に持ってる帽子に注目。
ナポレオンがかぶっていたものと同じ形。
フランスの軍服を着た将軍 徳川慶喜
出典: published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association), Public domain, via Wikimedia Commons
でも実は、ロッシュがこんなに日仏友好に必死になったのは、駐日イギリス公使ハリー・パークスとの競い合いがあったからです。
フランス公使VSイギリス公使 ドロドロしてそ~
フランス公使のロッシュが幕府に接近している一方、イギリス公使パークスは「幕府そろそろ危なくない?!」ってことで、薩摩藩や長州藩と仲良しになっていたのでした。
まあ、こっちの方が正しかった。
ロッシュ公使 パリ万国博覧会参加を幕府に説得
ロッシュは、幕府にパリ万国博覧会に参加するよう必死に説得します。
また、出品の品を送るだけではなく、各国の王たちも参加するから、将軍の身内の誰かをフランスに寄越してください、ともお願いしています。
とにかくフランスにいい印象をもってもらって、日仏貿易をイギリス以上のレベルにもっていきたかったのです。
やっぱりイギリスとの競争!
将軍は討幕運動が盛んなときに日本を御留守にするわけにはいかないから、異母兄弟の弟 昭武(あきたけ)をフランスに派遣することにしました。
この時、昭武公14歳。中2ですよ!その年で、日本親善大使の役目果たしたのです!
すごすぎ! 昔の人ってエラい!
日本がパリ万国博覧会参加を決定した裏の理由
将軍慶喜がフランスびいきだったから、フランスとさらに良好な関係を作りたい、という理由だけではないのです。
当時、幕府の権威は地の底に落ちていました。
討幕の動きが高まっていた時代です。
パリ万国博覧会に参加すれば、「日本の主権は幕府にあるんだ。」ということを世界中にアピールできる、って将軍は考えたのです。
でもこれ、残念ながら、大失敗。
どうしてかは、続きを読んでッ。
1867年パリ万国博覧会 日本の評判
昭武公とその随行員たちは、パリ入りするや否や、新聞の記事で「琉球公国の使節が来ている」と知るのです。
なにそれ、琉球公国って???ってなりました。
日本ヤバそう
幕府は諸藩に、「パリ万国博覧会へ出品しませんか」と募りました。
その時に
「幕府統率のもとでだよ」という条件も出していました。
薩摩藩と佐賀藩の二藩がパリ万博へ出品することになります。
参加してくれてありがとう、ってなりそうなものなのですが、
なんせ、討幕モードでいっぱいの時代。
薩摩藩は、日本にいたフランス人貴族モンブラン伯爵という人の力を借りて、独立国家にみせかけ「琉球公国」使節と名乗って参加したのです。
博覧会のカタログにも、日本帝国と琉球公国の名前が並列で載っている始末。
幕府の使節団はフランスに行ってみて初めてそれを知り、大仰天。
パリ万博の組織委員会に抗議して、「琉球公国」という言葉は取り除いてもらいました。
でも、
「日本帝国」の欄は「大君政府」、それと同格で「薩摩太守政府」、「肥前太守政府」と書かれることになってしまいました。
フランスの雑誌記事には
「日本は、絶対的な帝政国家ではなく、封建領主の連邦国家でした」と報じられてしまいます。
つまり、幕府が絶対的な権限を持っているわけではなく、幕府同等あるいはそれ以上の力を持つ封建領主がいっぱいいるんだね、封建時代のフランスと一緒だねっ、て思われてしまったのです。
というわけで、
幕府が目論んだ「日本の主権は幕府にあり」アピールはおじゃん。
どころか、「この国、揉めてる?ヤバくない?」って印象与えちゃってます。
文化面での評判
日本は、漆器、陶器、武具、衣服、農具、そして多くの浮世絵などを出品しました。
さらに、
シャン・ド・マルスの庭園に造られた日本の家屋がヨーロッパの人々の目を引きました。
週刊誌 イラスト版ル・モンド(Le monde illustré)の記事に載っていた日本の家屋についての記述、おもしろいので箇条書きにします。
当時のヨーロッパ人が何に驚いたかよくわかります。
- 日本の家は木でできていて非常に軽い。
- たいていの家屋は1階立てで背が低く小さい。
- なにもかも、左右対称を避けているかのようだ。
- 窓ガラスがなく、代わりに紙を使っている。(ふすまや障子ですね)
- 家に家具がない。
- 押入れがあって、その中に生活必需品が全部仕舞い込まれている。
- 快適なベットというものを知らないようだ。
- 椅子もなく、四角い薄っぺらいクッションが必要な数だけ床に散らばっている。
- 人びとはその上にしゃがみ込む。 イーノー:いえ、これ座ってるんです。
- 家具はないが、やたらめったら箱が多い。(筆箱、宝石箱、花瓶を入れる箱、茶器を入れる箱、香水の箱など。)
日本家屋を作るために木材まで日本から持ってくるこだわりよう。
ヨーロッパ人にとっては、日本の家や芸術品に「左右対称がない」っていうことが本当に新鮮だったみたいです。
フランスではとにかく「左右対称が美しい」とされていました。
だから、
「何で非対称なの~?!おお~これは『自然』を真似たものなのか~」←かなり要約
と、むちゃくちゃ驚いた!!!
パリ万国博覧会で一番人気の日本茶屋
幕府側の出展者で唯一の江戸商人 清水卯三郎(うさぶろう)さんという人がいました。
この人はお茶屋さんパヴィリオンを作り、これが大当たり。
毎日毎日わんさか人が集まり、新聞・雑誌にもいっぱい掲載されました。
どうもこれ、パリ万国博覧会一の人気だったようです。
さて、このお茶屋さんには江戸柳橋芸者さん「かね、すみ、さと」の3人が日本髪に着物姿で常駐。
御座敷の上でキセルを吸ったり、手毬を突いたり、扇で仰いだりという日本の日常を演出していました。
さらに、希望する人がいたら、みりん酒やお茶を土間の縁台でサーブする、というのが売り物でした。
また、お茶屋さんの裏では日本の日用雑貨を売りました。
清水卯三郎さん、ちゃっかり商売人!
会期中の売り上げ合計6万5千フラン、6千5百万円相当(@_@)
お茶屋さんの記事
これもさっきと同じ週刊誌 イラスト版ル・モンド(Le monde illustré)に書いてあった内容です。
「シャン・ド・マルスに造られた1つの家には若い女性たちがいる。彼女たちは江戸出身である。
時には退屈していたり、ときには針仕事をしていたり、日本製の小さいパイプを吸っていたり、そしてよく手紙を書いたりしている。
彼女たちの母宛ての手紙であろう、それがびしょびしょになるほど涙を流していることがある。
野次馬たちはそれを見て知らん顔である。フランス人のみが、彼女たちの郷愁を思いやることができ、彼女たちの感情を尊重してやっていた」
「涙で手紙がびしょびしょ」って、やっぱり外国に連れてこられて、よっぽど悲しかったのでしょうか。
「フランス人にだけは、彼女たちを思いやる気持ちある」っていう箇所、イーノー的にはすごく笑えるのですが……
もう1つ、
作家のプロスパー・メリメ(『カルメン』の作家)が書いた手紙にも、日本パヴィリオン・お茶屋さんの描写があります。
「先日、万博に行ったとき、日本女性を見ました。大変気に入りました。
彼女たちはカフェオーレ色のとても心地よい色合いの肌をしています。
彼女たちのドレスのシワから想像するに、足は椅子の棒のように細い。大変かわいそうです。
周りに大勢の野次馬がいる中で、彼女たちは素晴らしい演技をしていました。
ヨーロッパの女性であれば、日本の群衆の前に出て、こんなに落ちつき払ったふるまいはできないであろうと考えました」
涙流して手紙書いている芸者さんが、群衆の前ではしっかり演技をしている!
かね、すみ、さとさんは柳橋の芸者さんでした。
当時の柳町の芸者というと、どこよりも「芸」にたけているということで有名だったようです。
「さすが柳橋芸者」っていう態度だったわけですね。
それにしても、山だかりになっている群衆の中で、メリメさん、芸者さんの肌の色とか足の細さまでよく見ていて笑えるんですけど。
「どこ見てんの~」っていうくらい観察してますよね。
その他の批評
幕府の使節団御一行様は30人ほどいました。
上の写真のように、ちょんまげを結って刀さしているわけですから、産業革命後の19世紀後半のフランス人たちにとっては、日本使節団は仮装行列並み。
徳川昭武について書いている記事もありました。
「徳川昭武は15歳(満14歳だった)という年齢にもかかわらず、彼の真面目な顔付きで、彼の受けている教育の厳しさと日本の礼儀の厳格さがうかがえる。」
また、
「日本の将校たちは布のハンカチではなく、紙で鼻をかむ」と軽蔑したように書いている記事もあります。
記事にするほどの内容か?って思うのですが……
まあそれくらい、布製のハンカチで鼻をかむことが「文明進んでる~」っていう自負心の表れだったのでしょう。
パリ万国博覧会 日本参加の結果
日本の出品した「和紙・絹製品・漆器」が評価され、日本は国としてグランプリを受賞しました。
お茶屋さんを出した清水卯三郎さんは個人で銀賞獲得です。
ほんと、すごいです、卯三郎さん。開国後間もない時代に、この国際感覚!
ジャポニスム(日本趣味)の大ブームを起こす
1867年のパリ万国博覧会の日本館の大成功により、フランスで、いやヨーロッパ中でジャポニスム(日本趣味)が大々的なブームになっていきました。
オルセー美術館の絵画を見ると、浮世絵とか日本の扇とかが描かれているものがいっぱいありますよ。
1868年に描かれたマネの絵。背景の浮世絵に注目。↓
幕府使節団員 その後の活躍
幕府の使節団員たちはパリ万国博覧会の後、欧州視察旅行もしています。
彼らがこのときにみたヨーロッパ近代文明が、帰国後、日本の近代化に大きく活かされることになります。
例えば、
使節団では昭武公の傳役(もりやく)だった山高石見守信離(いわみのかみ・のぶあきら)は、明治になってから長い間、博物館行政にかかわります。
外国奉行支配調役(しらべやく)だった杉浦愛蔵は、郵便制度の確立や富岡製糸場の建設に貢献しました。
使節団の勘定方、庶務担当の渋沢篤太夫(とくだゆう)(栄一)は、明治維新後、大蔵省を経て、500以上の民間企業の設立・運営や600ほどの公共事業に関わっていき、「日本 資本主義の父」と呼ばれるようになります。
まとめ
幕府の主権アピール作戦は大失敗に終わりましたが、1867年のパリ万国博覧会の日本参加は、長い目で見ると大成功だったといえるのではないでしょうか。
日本の浮世絵や工芸品が大好評でした。
昔も今も、工芸品とかサブカルチャーに強い日本です。
日本の伝統工芸やアニメなど、ますます世界で頑張ってほしいです。
最後までお読みくださって、ありがとうございました。
メルシー!(Merci)
※記事を書くに当たり、以下の文献・サイトを参考にさせていただきました。
参考文献 日本語
『プリンス昭武の欧州紀行』 宮永孝 山川出版社
『青年・渋沢栄一の欧州体験』泉三郎 祥伝社新書
『日本文化・外交小史』社団法人 日本観光通訳協会
論文 『1867 年パリ万国博における「日本」』 寺本 敬子
論文 『明治期の万国博覧会日本館に関する研究』 三島, 雅博
参考サイト フランス語
https://gallica.bnf.fr/blog/17082017/lexposition-universelle-de-1867-la-bibliotheque-imperiale?mode=desktop
http://frontieres-reel.edel.univ-poitiers.fr/fascinant-et-inquietant-le-japon-a-paris-en-1867/
https://www.worldfairs.info/forum/viewtopic.php?t=4170
https://www.persee.fr/doc/crai_0065-0536_2008_num_152_2_92041
http://paristeampunk.canalblog.com/tag/1867
http://ccfjt.com/meiji150eme/dessous-et-anecdote-de-lexposition-universelle-de-1867/
https://www.marcmaison.fr/architectural-antiques-resources/exposition-universelle-de-1867
http://laurent.buchard.pagesperso-orange.fr/Japonisme/OUVERT.htm
https://www.expositions-universelles.fr/1867-exposition%20universelle-paris.html
久しぶりにブログ拝読。
個人的にもパリ万博に関して興味があるので、大変楽しま選いただきました。
質の高い記事は、さすがですね。
次回も楽しみにしています。ありがとうございます。
ゲーノさまへ
いつもありがとうございます。
このようなコメントを頂くと、イーノーのやる気が倍増します!
これからもがんばって、ゲーノさんに興味持ってもらえるような記事を書いていきますね。
応援よろしくお願いします。
私は現在幕末・維新の西洋との遭遇をテーマにして執筆中ですが、その第11章と第12章で、柴田剛中のパリ出張の経過と徳川昭武の渡欧を取り扱っています。とりわけ薩摩藩やモンブランとの葛藤、向山隼人正などとカションとの葛藤など、興味深い問題もあり、ページ数は否応なく増えていきます。様々な資料や文献などを参考にしていますが、掲載する写真や絵図を、掲載の許可を得てどう確保するかに頭を悩ましています。イーノー様のこのサイトは大変参考になります。ありがとうございました。
KOMONJOさま、メッセージ大変ありがとうございます。
私のサイトが参考になる、なんて嬉しいお言葉、「これからも頑張ろう」という励みになりました。
KOMONJO様の執筆活動、心から応援しております。
これが日本文化の、最初のいわば公式な欧州展開か。
地元フランスへの影響の大きさもあるが、関わった日本人のショックも凄かったのではなかろうか。柳橋芸者の涙がそれを語っている。
易しく解りやすい説明を聞いた。
OKさま、記事をお読みくださり、ありがとうございます。また、コメント大変ありがとうございます。
柳橋芸者さんたちが日本に帰国されたときの喜びは、絶大なものだったと思います。
彼女たちの涙があってこその近代日本ですね。
初めまして
幾分前の記事ですが、コメント失礼いたします。
とてもいろんな視点から見れて、面白かったです!
私、Rise of Ronin というゲームにハマり幕末時代をいろいろ勉強しております。
ゲーム内でも、パリ万博に何を持っていこう?と渋沢さんから色々依頼をもらい、万博に行ってたのかと調べてる次第であります。
このゲームの中では、仏国人はジュールブリュネ殿だけですが、機会があればぜひいつか、記事にしてもらえたらなあって思います。
乱筆乱文失礼いたします。
nazonakunさまへ
コメント大変ありがとうございます。
渋沢栄一の出てくるゲームがあるのですね。
ブリュネ史は、幕府にフランス流の軍を作るために派遣された人でしたね。
またいろいろ調べて記事にできるよう頑張ります。
私の記事をお読みくださり、大変ありがとうございます。
このようなコメントは嬉しい限りです。