ヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿 5つの真実

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パリに住むフランス政府公認ガイド「イーノー」です。

ベルサイユ宮殿に詳しいあなたはもしかするとご存知かもしれませんが、
観光ガイドをしていると、お客様からこんな5つの質問をよくされます。

その5つの質問は何かと言うと
1)ヴェルサイユ宮殿は奴隷に造らせたというのは本当ですか?
2)ヴェルサイユ宮殿にトイレってなかったの?
3)王の食卓の残飯処理はどうしてたの?
4)革命の時にヴェルサイユ宮殿は破壊されたりしなかったの?
5)金色に光っているものは本物の金ですか?

など、このような質問をよくいただきます。

ですので今回は、フランス政府公認ガイドをしているイーノーが
実際のところどうなのか?
ヴェルサイユ宮殿に関する質問について詳しく調べたことをまとめてみました。

ベルサイユ宮殿に詳しくなりたい、もしくは
ベルサイユ宮殿に少しでも興味があるあなたは
ぜひ最後まで読んでくださいね。

ヴェルサイユ宮殿は奴隷に造らせた?

労働者に奴隷はいませんでした。

「奴隷のように働かせた」のかもしれませんが、奴隷という立場の人を
労働力として作った宮殿ではありません。

ヴェルサイユ宮殿を作るのに50年ほどかけています。

1685年の記録では36,000人の人が夜中まで働いていたそうです。

想像を絶する「うるささ」だったでしょうね。

↓こんな感じ。 1669年、建設中のヴェルサイユ宮殿の版画です。

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出典: Wikimedia Commons
Adam François van der Meulen- Construction of the Château de Versailles – WGA15115.jpg

労働者は、はじめは近くの村から集めてきました。
その後、軍人も労働力として土木作業に駆り出されます。

それでも全然人手が足りず、

フランス中から労働力を募りました。

特にリモージュ地方(フランス中部)から大勢の季節労働者がやって来ます。

当時その地方が飢饉でたいへんなことになっていた、っていうことと
有名な石工が大勢いたことが理由です。

労働者はみんな給料以外に宿と食事が支給されていました。
ホテルで雑魚寝状態の人もいれば、
ヴェルサイユ村の民家で寝泊まりしている人もいました。

 

さて、労働者はいくら払われていたのかが気になります。

給与は一日平均30-40ソルでした。
※リーブルとソルは当時のお金の単位で1リーブル=20ソル

卵12個が6ソルの時代です。

当時のお金っていわれても全然ピンとこないですよね。

たとえば、私が近くのビオスーパー(フランスのオーガニックスーパー)で買う卵12個入りが4-5ユーロくらいだから……

その5倍が給与として、20-25ユーロくらいの感覚かしら?
日本円だと3,000円弱。

うーん、労働時間からすると安い気がする。一日10時間以上絶対仕事してたし~

 

事故や疫病で死ぬ人も多かったので、労災補償もちゃんとありました。

意外と進んでいると思いませんか?

足や腕を骨折したら30-40リーブル。
失明したら60リーブル
建物の下敷きになって死亡した場合は60-100リーブル

補償金が家族に支払われました。

死亡して60リーブルしか払われなかったら、
失明のときといっしょなんだけどな~
自分に落ち度があった場合、とかでしょうか……

ヴェルサイユ宮殿にトイレなかった?

ありました。

真ん中に穴の開いた椅子がLa Chaise percée(ラ・シェーズ ペルセ)と呼ばれていて、ルイ14世のものは、日本から輸入した漆で作られたものなど
非常に豪華なものでした。

はじめは寝室にその穴あき椅子を持ってこさせ、用をたしていたのです。
衛生問題にもかなり気を配っていたルイ14世は
1672年に自分専用の便所を作らせます。

トイレもゴージャスで金箔飾り、ドアはガラスだったそうです。
なぜに、ガラス?

王様だけではなく、宮廷人の住むアパルトマン(一連の部屋のことをこう呼ぶ)に
1つはトイレが設置されました。

たいていは衣裳部屋がトイレを兼ねていました

 

ちなみに、ヴェルサイユのものではないけれど
穴あきトイレの例はこれ↓

 

出典 :wikimedia.org Prosopee / CC BY-SA
Vaux le Vicomte bathroom chair

平均して3,000人ほど住んでいたヴェルサイユ宮殿。
アパルトマンごとに穴あきトイレが1つあっても全然足りません。

だから、ヴェルサイユ宮殿ではカーテンに隠れて用を足していました。え(゚○゚)!

 

さすがに直接、カーテンとか床に……じゃないですよ。
汚い話ですみません。

カーテンの後ろとか屏風の後ろに陶器のツボ型穴あき椅子が置いてありました。

350個あったと記録されています。

 

さて、糞尿の処理ですが、

35の排水溝があって、そこまで穴あき椅子にたまった糞尿を捨てに行く役目の家来がいました。

捨てられた汚物は「臭いため池」とよばれるところまで地下下水道を通って
ながれつくのでした。

 

パリの町では汚物を道に投げ捨てるのが普通だった時代です。
ヴェルサイユ宮殿ではそれが禁止されていたのです。

 

ほら、どれだけルイ14世が衛生に気を使っていたか、分かりますね(-_-)

王の食卓の残飯処理はいかに?

「家来が食べた~。」

正解!

でも、それだけではなかったので、先を読みつづけてください。

王の夕食は平均40皿でます。
大食漢のルイ14世でしたが、さすがに全部は食べきれません。

それで、手を付けなかったお皿は
給仕係の家来とその他一部の官僚が食べてよかったのです。
残り物なんて~、っておっしゃるかもしれませんが、
これ無茶ありがたいことだったのですよ。

宮廷人、みんながみんな台所のある部屋をあてがわれていたわけではなく、食にありつくのは大変なことでした。

残り物をもらえた家来は、この残飯で夕食会を開きます。
各人1人だけ人を招待する権利がありました。

でも、それでもすべて消化できないほどの量があったのです。
それをどうしたかと言いますと、小売商に売りました!

これも彼らの権利だったのです。
彼らは残飯でお金儲けもできたわけです。

小売商たちは、ヴェルサイユ宮殿前の広場や宮殿横の通りに
屋台をだして、買い取った残飯を売りました。
お客さんは宮廷人や村人です。

見せ方上手なフランス人だから、残飯もきれいに盛り付けていたのではないか、
と想像されます。

この屋台のおかげで、多くの宮廷人は食いっぱぐれをまのがれました。

steak屋台でテークアウトしたものは、
部屋の暖炉で温めてから食べていたようです。

マリー・アントワネットはプチ・トリアノンにばかり
いた?

trianon_hameau©inoparis.com 王妃の村里

確かにマリー・アントワネットは格式ばったヴェルサイユ宮殿での生活は大嫌いでした。

プチ・トリアノンと呼ばれる離宮が大好きで、トリアノンの庭を自分好みに作り替えていきます。
そして、上の写真の「村里」まで作ったのです。(ちなみにこれは当時の流行)

世間ではマリー・アントワネットは離宮で好き放題していたように思われています。

でも、それはちょっと大げさ。
彼女がプチ・トリアノンで過ごしたのは

10年間でたったの116日

つまり、平均すると一年に10日位を過ごしただけという計算になります。

 

もう少し細かく見てみましょう。

1779年には3週間長期滞在しています。
これは、マリー・アントワネットがはしかにかかったので、
王に移さないためでした。

1784年には39日滞在。ちょっと長めです。
このあたりから王妃の村里が出来上がってくる頃なので、
楽しくて居座りたくなる気持ちわかる気がします。

それ以外はいつも1か月以内の滞在でした。

マリー・アントワネットがプチ・トリアノン住まいの時は、
王ルイ16世はヴェルサイユ宮殿本殿から歩いて
(スニーカーで急ぎ足で歩いても40分はかかる)
あるいは馬に乗ってプチ・トリアノンに来ます。

temple-amour©inoparis.com トリアノン領地 愛の殿堂

「愛の殿堂」でマリー・アントワネットがルイ16世をお迎えする、
というのが慣習になっていました。

ルイ16世は、朝やってきてマリー・アントワネットといっしょに朝食をとり、
いったん宮殿に戻ってから、今度は14時にやってきて昼食をとり、
また宮殿に戻って、21時に夕食にやってくる、
そんな生活をしていたそうです。

ルイ16世がプチ・トリアノンで眠ることはありませんでした。

プチ・トリアノンにはちゃんと「王の寝室」もあるのに……です。

でもこれは2人の仲が悪かったから、というわけではなかったと思います。

王様まで離宮に行ってしまったら、王様中心にまわっている儀式だらけの宮殿で
家来たちはどうしたらいいの~
ってことになってしまいます。

やはり、王の役目を果たすために
プチ・トリアノンに泊まり込むことはできなかったのでしょう。

もう1つの理由は、
王でさえ、マリーアントワネットが招待してくれないと
プチ・トリアノンに来ることはできませんでした。

ここでは、マリー・アントワネットが女主人です。
すべての掟を決めていました。

そんなところに王様がお泊りしちゃったら、
せっかくの女主人の立場がおじゃんになってしまう、
これも理由だったのではないかと思います。

いずれにしても、ルイ16世けな気な人です。

 

マリー・アントワネットはトリアノンの領地(離宮のある場所一帯を指す)を
「小さなウィーン」と呼んでいました。
彼女はウィーン郊外のシェーンブルン宮殿で、
儀式に縛られず自然の中で伸び伸びと育ったのです。

「プチ・トリアノン、ここでだけは自分が自分らしくいられる」
と言っていました。

フランスでは外人であったマリー・アントワネットにとって、
プチ・トリアノンは心を癒してくれる「ふるさと」
みたいなものだったのでしょう。

本当はもっともっとプチ・トリアノンでお泊まりしていたかったことでしょう。

革命の時にヴェルサイユ宮殿は破壊されなかったの?

破壊されていません。

「これからはこの宮殿を国民のために役立てる」
という名目で破壊を真逃れました。
建物の一部は、博物館や美術館になりました。

しかし実のところは、あまりにも壮大な建築物だったため、
破壊するのに莫大なお金がかかる、そのお金がない、
というのが本音だったという話です。

中にあった家具や装飾品は、1793年8月から1年かけて、
ほぼ毎日のように競売にかけてほぼ全部が売りつくされました。
そして世界各国に散らばってしまったのです。

 

空っぽになったヴェルサイユ宮殿。

ナポレオン1世が自分の住居にしようとしたのだけれど、
やっぱり修復するのが高すぎるから断念。

その代わりにプチ・トリアノンとグラン・トリアノン(これも離宮)を修復して、
家族の住居にしました。

 

さてその後、ヴェルサイユ宮殿は
19世紀初頭にルイ・フィリップ王が
「フランスの全栄光」のための美術館、
つまりフランス歴史美術館に変えていきます

 

20世紀半ばからは、ヴェルサイユ宮殿にもともとあった家具を
一生懸命買い戻しています。
そして、王が住んでいたときとなるべく近い状態に復元する努力が
今も続けられています。

金色に光っているものは本物の金ですか?

mirror_room©inoparis.com ヴェルサイユ宮殿 鏡の間

金キラ部分は全部金箔がはりつけてあります!

木彫り細工の壁は、浮き立ったところは金箔を張り付け、
溝の部分には黄色の絵の具を塗って、見た目は金にみえるようにしています。
こういうのを「トロンプ・ルイユ」
フランス語で「目をだますこと」っていう意味ですね。

窓枠とか門とかバルコニの鉄柵も金色部分は金箔。

©inoparis.com ヴェルサイユ宮殿 王の中庭から見た宮殿

そにかく、金・金・金

「太陽王」という異名をとっていたルイ14世です。

この世を支配するルイ14世が住む宮殿は
太陽の象徴だったのです。

まとめ

いかがでしたでしたか?
ヴェルサイユ宮殿の意外な面が見えたのではないでしょうか。

36,000人もの労働者が働く工事現場。その中で生活している人々。
3,000人もの宮廷人がトイレを求めて、そそくさとカーテンの裏に入っていく様子、
かと思うと夕食テークアウトしにいく、紳士・淑女……

そしてプチ・トリアノンでは
王妃マリー・アントワネットが女主人になって楽しんでいる様子、
でもその中に、プチ・トリアノンでしか「ホッとすること」ができない
外人マリー・アントワネットのヴェルサイユ宮殿での苦しみ

などなどを想像してみてください。

お金足りないからヴェルサイユ宮殿取り壊せな~い、という革命家や、
ヴェルサイユ宮殿住みたいのに修復費高すぎ~、離宮のトリアノンで
我慢しておこう、っていうナポレオンもおもしろいですよね。

いつの時代のどれだけ歴史的に有名な人でも
みんなひとりの人間だったんだ、
っていうことが感じらます。

みなさん、機会があれば
ぜひヴェルサイユ宮殿にいってみてください。

その時にこの記事を思い出していただくと、豪華絢爛、金箔だらけのヴェルサイユ宮殿が
非常に人間くさい、親しみ深いものに感じられてきますよ。

最後までお読みくださって、ありがとうございました。

 

A bientôt (アビアント)!

※A bientôt (アビアント)=フランス語で「それではまた近々!」

 

 

 

 

 

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